2006年度1学期「実践的知識・共有知・相互知識」   入江幸男

3回講義 April. 25 2006

§2 実践的知識とは何か (先週の続き)

 

前回のミニレポートについて

<課題:この分類に対する疑問事例を挙げてください>

(どれも鋭い指摘でしたので、すべてを取り上げることはできません。今週一部を取り上げ、残りは来週にします。)

・無意識のうちにしてしまう癖、貧乏ゆすりや、爪を噛む、髪を触るなど(須田さん)

(これは、気づいていないときには、「知らないで行っている行為」、人に指摘されて気づいたときには「観察に基づいてはじめて知る行為」に属するでしょう。しかし、これらの行為を最初から意識的に行うこともあります。つまり、先週の行為の分類は、ある行為にとってどこに分類されるかは、固定的ではないということになります。では、どの程度の可変性があるでしょうか。この点をさらに詳しく網羅的に調べてみる必要があるかもしれません。)

・虚栄心を、傾向の束として捉えるならば、虚栄心を動機と呼ぶのは、不適当ではないか(宮川くん) 

(心の働きがある傾向性を持っていて、それによって、行為を説明できる場合があります。これは法則による説明に似たものだといえるでしょう。

例えば、「泣き虫」という傾向性があり、些細なことで泣いたとしましょう。「何故泣いているの?」と尋ねたとき、「あそこで転んだから」と答えるとすると、これ(「転んで痛くて悲しいから」)は、行為の理由になると思います。これは、過去視向型動機、悲しみでしょう。

ところで、このとき第三者が「この子は、泣き虫だから」と答えたとすると、泣き虫であることは、泣いた理由というよりも、泣いた原因を答えているように思われます。また、このように法則で、「Cが起きたからDが起きた」というように行為Dを説明するときには、厳密に言えば、法則が原因なのではなく、Cが原因です。したがって、ここでは「転んだこと」が、「泣いたこと」の原因(心的原因)になります。

しかし、「泣き虫」という傾向性が、「わずかな悲しみを動機にして泣く」というように記述できる法則であるとすると、この法則は、些細な理由と行為との恒常的な関係を述べており、原因と結果の関係を述べているのではありません。したがって、「泣き虫」という法則によって泣いたとしても、「転んで痛くて悲しいこと」は「泣くこと」の(心的原因ではなく)理由であるといえるでしょう。

ところで、W.ジェームズによると、ひとは悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しい、のです。感情に関するジェームズ=ランゲ説と呼ばれる立場があります。これは、「身体的変化は、刺激を与える事実の知覚に直接に続いて生じる。この身体的変化が起こっているとき、同じ変化についての我々の感じ(feeling)が、感情(emotion)である」と主張するものです。通常は、知覚(熊に会う)→感情(恐怖)→身体的変化(震える)という順序を考えますが、ジェームズは、知覚→身体的変化→感情、という順序が正しいと主張するのです。つまり、怖いから震えるのではなくて、震えるから怖いのだというような、感情についての生理学的な理論です。これによると、「転んで痛くて悲しいから、泣く」のではなくて、「転んで痛くて泣くから、悲しい」ということになります。しかし、この説は、その後、実験によって批判されました。(文献等については、拙論、「感情の物語負荷性」を参照してください。)

・動機一般に分類される虚栄心や愛情は、時間軸上における逆行性や先行性と無縁だろうか(柿田くん)

(たしかに、動機一般と、過去視向型動機、未来視向型動機の区別は、曖昧な場合があると思われます。)

・「思わず〜する」というのは、どこに分類されるのですか?(井野くん)

(たとえば、漫才を見ていて大木こだまが「そんなやつおらんやろ」といったときに、思わずふきだしたとしよう。このとき、大木こだまのその発言は、ふきだしたことの心的原因でしょう。笑いは、心的原因をもつ行為だといえそうです。おそらく他の「思わず〜する」もすべて心的原因をもつ行為だろうと思われます。)

・周りの人に釣られて欠伸するのは心的原因だろうか(三宅くん)

(周りの人が欠伸するのを見ることは、原因というよりも、きっかけのような気がします。欠伸の原因は、生理的心理的な状態についての観察によって知られるものだろうと思います。ただし、きっかけと原因の区別は曖昧です。というのは、どのような原因もそれだけでは、結果を引き起こすのに不十分だからです。例えば、手を離せば、握っていたボールは落下しますが、そこには重力も働いています。そうすると、きっかけもまた、弱い意味では原因だといえそうです。)

・生まれたばかりの赤ん坊が、母親の乳房を吸うことで母乳が飲めることを知っている、ということは、どのように分類されるのでしょうか(土岐くん)

(この知は、命題知ではなく、技能知(know-how)です。赤ん坊は命題知をもっていません。そうすると、この行為は、「何をしているか知らない」に分類すべきなのでしょうか。「何をしているか知らない」行為とは、我々が気づかずに行っている行為です。しかし、ここでは、赤ん坊はおそらくミルクを飲むことに注意を向けているように思われます。したがって、我々にとっての「何をしているか知らない」行為とは、別物です。命題知を持たない赤ん坊や動物の振る舞いの分類は、別に考える必要があるでしょう。)

・「観察に基づいてはじめて知る」のなかの「はじめて」というのはどのような意味があるのでしょうか(藤野くん)

 (「観察に基づかないで知る」行為もまた、それを後から観察によって知ることができます。つまり、それらもまた、「観察によって知ることができる」のですが、「観察によってはじめて知られる」行為ではないのです。)

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2、アンスコムの独創性1

アンスコムによる分類の独創的なポイントの一つは、「自発的行為」と「非自発的行為」の区別を、「意志」という概念を用いずに行うことである。つまり、「なぜ・・・するのか」という問いに、観察によらずに答えることができること、しかもその答えが行為の原因を答える(心的原因を含めて)ではなく、行為の理由を答えるものである場合(つまり、動機による行為)のみを、「自発的行為」とする、ということである。(アンスコム、§713

 

3、「心的原因」とは何か

菅氏は、心的原因について次の4点をコメントしている。

 

(1)「心的原因とはたいていの場合心的出来事である。外的な出来事であるとしてもそれが心的原因であるためには覚知されていなければならないのである。つまり、それは心に生じてくる出来事であるということが肝心なのである。したがって、外的出来事としての通常の原因とはくべつされるものの、出来事という点において類似性をもっており、後で示すように、行為の動機や意志と区別されるのである。」(菅、p.77

では、行為の動機や意志は心的出来事ではないのだろうか?それらが心的出来事でないとすれば、それらは何なのだろうか?(今は、答えが思いつきません。心に留めておきましょう。)

 

(2)「心的原因は、行為の場合に成立するのみならず、感情やさらに思考においてすら可能である。行為を考察する場合、心的原因と動機を区別することが重要であり、恐れや怒りといった感情の場合、心的原因と感情の対象の区別が大切である。」(アンスコム、p. 30

感情の例。「子供が階段の踊り場で何か赤い物を目撃し、あれはなにかと尋ねたのに対して(彼の乳母はサテンといったのであるが)それはサタンだと言ったと思いこみ、ひどくおびえたとする。子供が恐れている対象は布切れであるが、かれの恐怖の原因は乳母の言葉である。」(アンスコム、p. 30) ここで、恐怖の原因と恐怖の対象は異なる。

 アンスコムは、思考の例を挙げていません。

例えば、次のような想起が、その例になるのかもしれません。<マドレーヌを食べて、子供のころの記憶を思い出す。ある町の名前を聞いて、そこに住む友人を思い出す。昔のフォークソングを聴いて、昔の情景を思い出す。>

 では、次の例はどうでしょうか。<ある色を見て「これは黄色い」と言う。> この発言は、他の発言一般の場合と同様に、何か目的があるように思われます。「それは何色ですか」という問いに答えることや、相手の注意をその色に向けようとすること、などです。もしそうだとすると、これは未来視向型の動機によるものです。

では、次の例はどうでしょうか。<ある感覚から、「歯が痛い」と言う(思う)。> もしあまりに痛くて、思わず「歯が痛い」といったのならば、それは未来志向型の動機による発言ではないでしょう。それは、蛇を見て「ワァッ」と思わず声を上げるのに似ているように思われます。そうだとすると、それは心的原因です。しかし、その場合、これは思考の例になるのでしょうか?「ワァッ」と全く同じならば、思考ではないでしょう。

心的原因をもつ思考の例とは何でしょうか?

 

(3)「心的原因が問題になる場合には、どれもそれは意志行為ではない、とアンスコムが言っているわけではないということに留意すべきである。たとえば、「何故そのように言ったり来たり、歩き回っているのか」「それは軍楽隊のためだ、その演奏が私を興奮させるのだ」というように、心的原因を原因として持つ意志行為があることをアンスコムは、認めているのである。」(菅、p.77

 

(4)心的原因とヒューム的な原因(外的原因)との相違点と類似点

相違点1。心的原因は、観察に基づかないで知ることができるが、ヒューム的な原因は、観察にもとづいて知ることができる。

相違点2、「ヒューム的な原因の場合、恒常的連接関係、つまり、一般的法則命題を含んでいあるが、しかじかのものがある振る舞いの心的原因であるという場合、そのような一般的法則命題を前提してはいない。」(菅、p.78

類似点、「心的原因は行為や動作に先行する(心的)出来事なのであり、この点において、それはヒューム的な原因と同じであると言えよう。」(菅、p.78

この相違点2ですが、確かに菅氏の言うように「窓からたびたび顔が現れるならば、びっくりして飛び上がることもなくなるであろう」と思われます。しかし、そのようなことが予期されていない状況では、窓から顔が現れたならば、多くの人は常に驚くのではないでしょうか。つまり、ここにはやはり一般的な法則性があるように思われます。

 

4、心的原因と動機の区別

(1)過去視向型動機と心的原因の区別

 この区別について、アンスコムは次のように述べている。

「過去志向型の動機を心的原因から区別するものは何であろうか。復習、感謝、後悔、哀れみといった過去視向型の動機には善(利)および悪(害)の概念が含まれている。」§14

「もしある行為が行為者によって、何らかの意味で、善(利)あるいは悪(害)なる行為としてみなされており、また、その行為の理由として、過去において生じた出来事も善(利)あるいは悪(害)とみなされているとすれば、この理由は心的原因ではなく、動機なのである。」(アンスコム、p. 41

(2)未来視向型動機と心的原因の区別

 この区別について、アンスコムは次のように述べている。

「現になされている行為に対して「なぜ?」という問いが投げかけられ、それに対して未来の状態を記述することによって答える場合には、記述されるのは未来の出来事であるという理由だけで、それは既に心的原因から区別されており、したがって、之までのところ意志一般を善悪(利害)に関わる意志であるという必要はいささかもないように思われる。」(アンスコム、p. 43

(3)動機一般と心的原因の区別

 この区別をアンスコムは述べていません。おそらく自明だと考えたのでしょう。

(今週のミニレポートの課題:この区別を説明してください。)

 

(4)動機と心的原因の区別の曖昧な場合がある

アンスコムは、「なぜ」に対する答えが、心的原因を述べる場合と、行為の理由を述べる場合と、その区別の曖昧な場合があることを§15で認めている。

「あるものがあることの理由であるのか、それとも原因であるのかのはっきりした区別ができない場合がしばしば存在する」(アンスコム、p. 44)